KASOUKEN  一般社団法人  火 葬 研
 ASSOCIATION OF RESEARCH INITIATIVES FOR CREMATION,FUNERAL AND CEMETERY STUDIES
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 トリビア‐墓地

  死の接吻          墓地(墓石・モニュメント)/スペイン

バルセロナで教会以外にできた墓地で、最も古いのがポブレノウ墓地です。設立は1775年で、城壁の外に作られたヨーロッパで最初の墓地になり、街の東部の海岸寄りにあります。墓地が完成してから12年後に教会墓地は廃止されました。ポブレノウ墓地はナポレオン時代の1813年に一度破壊されましたが、6年後の1819年に再開され、立体的に柩を安置するモーソリウムが初めてこの墓地でつくられました。
ポブレノウ墓地にも歴史を辿るツアーコースが設定されています。この墓地のシンボルは、死の接吻の彫刻があるお墓で、見学コースでは最後に訪れるようになっているようです。御覧のようにほかの墓標とは違った際立ったデザインで、その写実的な彫刻から故人の死の苦渋や近親者の嘆きが、何百年も時間が経過しても生々しく伝わってきます。

墓標の表現力に完敗です。


2019.04 葬送デザイン部会 S



  都市の中に広がり続ける墓地   墓地(霊園・墓地)/モロッコ

迷宮都市フェズの旧市街地の郊外には墓地が広がる。イスラムでは、火葬は厳禁である。埋葬された遺体はそのまま眠り続ける。したがって、墓地は市街の外へ外へと無秩序に広がっていく。谷から次第に山も覆いつくしていく。多くの都市では墓地が都市開発の妨げとなり、効率化から火葬が導入され、世界的にみると火葬化の傾向がみられるが、イスラムの国では火葬率は低いままである。訪れたモロッコも、墓地はそのままの状態で、拡大する都市の中に残り続けている。その姿はしばらく変わりそうもない。


2019.04 葬送デザイン部会 T



  街道沿いの気付かれない墓地   墓地(霊園・墓地)/モロッコ

カスバ街道は、モロッコ中部の都市ワルザザードからティネリールを経てエルラシディアまでを東西に結ぶ街道。カスバと呼ばれる要塞化された集落が多く残っていることで知られる。
岩漠地帯の道を車はひたすら走り続ける。村をいくつも通り過ぎる。最初は気づかなかったが、ところどこに斜面に石が幾つも置かれている場所があるのに気づく。運転手から教えてもらうと、その場所が墓地であるという。白い墓石もあるが、ほとんどは墓石があるのではなく、小さな自然石の墓標であるため、墓地であるということに気づかなかった。


2019.04 葬送デザイン部会 T



  タイルの装飾が美しいマラケシュの墳墓群
              
 墓地(墓石・モニュメント)/モロッコ

モロッコの世界遺産となっている「マラケシュ旧市街」。この街のジャマ・エル・フナ広場は日が暮れる頃になると大きく賑わう市場である。この広場から南に15分くらいのところに、スルタン王が眠る場所として知られているサアード朝の墳墓群がある。
16〜17世紀にマラケシュを都として栄えた、サアード朝のスルタンたちが眠る墳墓が並ぶ。花が咲く美しい庭があったり、建物のタイルの装飾が美しい。世界中から旅行者が訪れる観光スポットになっている現在、やすらかな眠りとは遠いのかもしれない。


2019.04 葬送デザイン部会 T



  世界で一番立派?ナポレオンの柩
              
 墓地(墓石・モニュメント)/フランス

ナポレオン・ボナパルト(1769-1821)は、革命期のフランスの軍人・政治家である。フランス革命後の混乱を収拾して軍事独裁政権を樹立した。
1821年5月5日、ナポレオンは、1815年に幽閉されたセントヘレナ島で死を迎えた。遺体は、生前好んで散歩をしたという"ゼラニウムの谷"に葬られたが、1840年にルイ=フィリップ国王の意向により、本土に帰還した。
1840年12月15日、遺体がアンヴァリッドに運ばれた際、国を挙げての国葬が営まれた。1842年、国王が建築家ヴィスコンティに棺の制作を発注したことを受け、ドーム教会の地下には巨大な穴が空けられ、大規模な改修を伴った納骨堂が作られ、遺体は1861年4月2日に安置された。

赤瑪瑙で作られた5重の柩に納められたナポレオンの遺体は、ボージュ産の緑の花崗岩の台の上に乗っている。ナポレオンの遠征の功績を讃えるために、床には勝利の象徴である12の月桂樹のモチーフが彫刻家プラディエにより彫られた。


2019.04 葬送デザイン部会 T



  墓石のキスマーク      墓地(墓石・モニュメント)/フランス

オスカーワイルド(Oscar Wilde1854-1900)は、作家、小説家、詩人、劇作家でもある。1854年アイルランドのダブリン生まれ。世紀末文学の代表的作家で、芸術のための芸術を提唱した。才気あふれる作品を発表する一方、奇抜な服装や過激な発言で社交界でも注目を集めた。アルフレッド・ダグラス卿との男色事件で有罪判決が下り収監され、出獄後フランスに渡るなど、スキャンダラスな一生を送った。享年46歳。

お墓は、フランス・パリのペール・ラシューズ墓地にある。ファンによるものか、局部が取られた墓石にはキスマークでいっぱいである。


2019.04 葬送デザイン部会 T



  建築工事…いえ墓地工事です    
              
 墓地(墓石・モニュメント)/イタリア

イタリア・ミラノにある記念墓地(CEMITERO MONUMENTALE AL MILANO)は、1863年から1866年に建築家カルロ・マチャキーニにより設計されたもので、1867年に完成した。周りは城壁で囲まれており、彫像、小礼拝堂、礼拝堂など多数の記念モニュメントを記念墓地内部に保存している。面積は25万㎡におよび3つの区画に分かれている。
この記念墓地のために大勢の芸術家が働いた。とてもお墓に見えないもの多く、大変美しい彫刻が多い。それぞれが独自に死を表現している。家族廟は、遺体の安置だけでなく、礼拝ができるスペースを備えた巨大なものもある。最近のものではガラス張りのものもみられた。

工事中の家族廟があったが、足場を組み、作る工程は、まるで建築工事を行っているようであった。実際は死後の建物を作っているのかもしれない。


2019.04 葬送デザイン部会 T



  自ら設計した墓地に眠るスカルパ
              
 墓地(墓石・モニュメント)/イタリア

ジョゼッペ・ブリオンは、ラジオ職人から一代でヨーロッパを代表する家電メーカーのブリオン・ヴェガ社を築いた人である。ブリオン・ヴェガ墓地は、ジョゼッペ・ブリオンが亡くなった後、妻のオノリーナが、当時、ヨーロッパで脚光を浴びていたカルロ・スカルパに依頼、1969年に設計が始められた。妻は出生地のイタリアのサン・ヴィートの共同墓地で眠ることを選んだ。
スカルパは、日本の美に影響され、日本を何度も訪れた。墓地内にある礼拝堂の内部には、日本の障子をイメージしたようなドアや屏風に見える扉があり、所々に日本の風景を彷彿させさせるデザインが組み込まれている。

スカルパは1978年11月に仙台で亡くなっている。子息のトビア・スカルパのデザインにより造られた墓は、ブリオン家の墓の外側で、共同墓地との間にひっそりと眠っている。スカルパは、自分自身もここで眠ることをストーリーの中に入れていたかのようである。


2019.04 葬送デザイン部会 T



  墓地にある唯一の和形のお墓
              
 墓地(墓石・モニュメント)/オランダ

オランダ・アムスエルダムにある新東墓地(De NieuweOoster)は、1892年に開園したもので、1914年と1928年の2度にわたって拡張されている。
面積は33エーカー(133,552㎡)で、墓地の回りが森で囲まれている。まさに森林墓地である。この墓地は特別自然保護区となっており、アムステルダムの主要な緑地の一部となっており、動物にとっても楽園となっている。
植物や木の種類も豊富で、380種類の樹木があり多様性が高くなっている。

墓園の中に、幕末のオランダ留学生の鍛冶師大川喜太郎のお墓がある。この墓地の中では珍しい和型のお墓で、オランダで最初に亡くなった日本人と、横に故人を紹介する案内板があった。異国の地で亡くなったが、お墓は今でも手厚く管理されている。


2019.04 葬送デザイン部会 T



      
  4国王に担がれたコロンブスの柩
              
 墓地(墓石・モニュメント)/スペイン

セビリア大聖堂は、スペイン最大で世界では3位の大きさの大聖堂である。レコンキスタ以前はこの地には巨大なモスクが立っており、隣接するヒラルダの塔はかつてモスクの尖塔(ミナレット)であった。モスクを基礎にして、1402年から約1世紀もの歳月をかけて建造された。ゴシック様式とルネッサンス様式が混合する建物は、免罪の門から入った場合は教会に入る前に中庭が存在するなど、モスクの名残がいくつかみられる。
ヒラルダの塔からはセビリアの街が一望できる。塔から眺める大聖堂の屋根は、モスクの屋根のシンプルさに対してゴシック建築の豪華な装飾の対比が面白い。

この大聖堂の中にコロンブスの柩がある。柩は袖廊の右側ある。柩は4国王に担がれており、新大陸を発見したコロンブスとゆかりの深いセビリアの黄金期を物語っている。


2019.04 葬送デザイン部会 T



  白い街の白い墓地        墓地(霊園・墓地)/スペイン

スペインのネルハには「ヨーロッパのバルコニー」と呼ばれる地中海を見渡す展望台がある。ヨーロッパからの観光客も多く、居住者の3分の1がイギリス人となっている。白い街並みと道路のタイルの模様が美しい。バルコニーから眺める地中海は透明度が高く、白い街並みと相まって、のんびりとした空気が漂っている。
ネルハの外周道路から、並木道を歩いていくと墓地入口の門があり、左側には柩の安置できる建物がある。墓地の隣には葬儀社の建物があった。
墓地は白い塀で囲まれており、中に入ると正面の白い礼拝堂が目に入る。墓地の面積は大きくないが、柩を立体的に安置するモーソリウムが塀と一緒に墓地を取り囲む。中央には平墓地や家族墓が並ぶ。白い街の墓地もやはり白かった。訪れた日は埋葬式があるようで、次々と会葬者が集まってきた。


2019.04 葬送デザイン部会 T



  花が途絶えることが無い流人墓地 
               
 墓地(墓石・モニュメント)/東京

「流人墓地」は島の共同墓地の一段低い所にある、流人達のお墓である。当初は植樹によっても区別され、通り抜けは出来なかった。流人墓地へ通じる道は、不浄道と呼ばれ、墓地の西北側に今も残っている。
流人が在島中、島民の教育、医療、諸技術の普及や民俗芸能など、島民の生活や文化に貢献した流人も多いが、日々の憂悶を、酒や博打にまぎらわせた者も少なくなかったと思われる。100基近い墓石がならび、酒樽型・茶碗とサイコロ型などのものもある。生前好んだものを仲間が墓石として刻み、その霊を慰めているのかもしれない。

村人は今もなおこの流人墓地に花を手向ける。花が絶えることはなく、白砂の敷きつめられた様は美しい。


2019.04 葬送デザイン部会 T



  街並みのような白いお墓      墓地(霊園・墓地)/タイ

先日、タイに行く機会があり、白の空間を体験しました。

並んでいるのはお墓です。
それぞれの思いで形づくられた彫刻のように一つ一つ並ぶ対象物の様子は、屋外の展示物のようでもあり、石畳がつながっているヨーロッパの街並みのような感覚でもありました。
ここに来る方は、お墓参りをどんな風に感じるのかと考えさせられるとともに、日本のお墓事情は随分さみしいなと感じました。
日本でも墓石が白かったり、いろいろな色、石だけでなく金属板などでできていたら、墓地の雰囲気も変わるかもしれません。

いろいろな国のお墓事情のお話でした。


2018.12 葬送デザイン部会 N



  遠くを見つめ続けるムンクのお墓   
                        墓地(墓石・モニュメント)/ノルウェー

エドヴァルド・ムンク(Edvard Munch 1863- 1944)は、19世紀-20世紀のノルウェー出身の画家で、『叫び』の作者として世界的に有名である。ノルウェーでは国民的な画家である。

ムンクのお墓は、オスロ市の中心に近い、著名人が多く眠る記念墓地、ヴォール・フレルセルス・グラヴルンド(VårFrelsersgravlund)にある。入口の看板には、ここに眠る著名人の場所が示されている。ムンクのお墓、墓地のほぼ中心にある。訪れる人も多いようで、ガイドブックにも載っている。
ムンクの墓石は、頭像があるせいか他の墓石と比べ強いオーラを感じる。ムンクからはどのような風景が見えるのだろうか。


2018.09 葬送デザイン部会 T



  やさしさの無縁墓       墓地(墓石・モニュメント)/神奈川

横浜の市営墓地にまるで古墳のような墓地がありました。古墳の手前には焼香台や献花台のようなもの、左側には「横浜市大震災火災横死者合葬の墓」と刻まれた石板、そして右側には台形状の石塊に経緯が刻まれた碑文が古墳を中心にシンメトリーに配置されています。
大正15年、関東大震災にて横浜市で亡くなられた無縁者の墓ということですが、詳細は分からないので、デザイン的な観点から見てみましょう。

古代の円墳を模したような形状から、柔らかで穏やかなイメージや、植物で覆うことで永遠なる自然性が感じられます。この合葬墓を設計された方は、極度な威厳性や尊厳性を象徴的に考えるより、きっと穏やかに眠ってほしいというやさしい気持ちを優先したデザインを行ったのだと思います。


2018.09 葬送デザイン部会 S



  見渡す限り墓地の風景        墓地(霊園・墓地)/神奈川

ここは横浜の市営墓地。丘陵地にもかかわらず見渡す限り墓地が広がります。遠方には、横浜の中心地である高層ビル群がまるで墓石と同じように林立している壮観な風景が見渡せます。

現在、日本は、高齢者の人口比率が増えており、死亡者数が高まり各自治体の火葬需要のひっ迫や、墓地用地なども課題として挙がっているようです。ここは、周辺は住宅が密集しており、市営墓地ですから、これ以上の墓地拡大はないと思われますが、少しながら空いている墓地用地には募集をかけているようです。

今後、このような無秩序に見える墓地の風景は広がりを見せていくのでしょうか。最近では合葬墓や、納骨堂、散骨、手元供養など多様な弔い方がありますが、少なくとも、これからの霊園には、自然豊かな美しい風景に包まれた環境を創ってもらいたいものです。


2018.09 葬送デザイン部会 S



  都会の中心にひっそり佇む納骨堂 墓地(納骨堂・合葬墓)/日本・東京

ビルの谷間に佇む、周囲の建物と違う雰囲気を醸し出しているこの建物は納骨堂です。
都会のど真ん中、主要幹線から奥に入った、周りは超高層ビルに囲まれ、ぽっかり空いた都市のボイドのような場所にひっそり佇んでいます。人があふれる表の喧騒から離れて、とても静かです。足元には水盤が作られ、水音が響いています。ここなら故人も静かに眠れるかもしれません。

この只者ではない特異な形は、著名な建築家のデザイン。
寺院的なモチーフは一切ありませんが、どことなく宗教的な雰囲気の感じを受けるのは私だけでしょうか。


葬送デザイン部会 S



  伝統建築を模した納骨堂    墓地(納骨堂・合葬墓)/日本・東京

この建物は何でしょう?。

都内近郊にある某所、お寺さんの納骨堂です。
左隣にはマンションが建っていますが、これはお墓のマンション。搭状の建物に宝形の屋根が乗り、黄金に輝く相輪が突出して、まるで、仏塔のようです。

お寺さんですから、伝統的な仏教建築のように相似して作るのはいいと思いますが、本堂よりも大きく、かつての伽藍のスケールとはかけ離れた存在には圧倒されるばかりですね。隣のマンションと引けを取らないスケール感は、 現代の寺院のあり方を象徴しているようでもあります。


葬送デザイン部会 S



  山肌に広がるバルセロナの墓地   墓地(霊園・墓地)/スペイン

スペイン・バルセロナにあるモンジュイックの墓地と火葬場を訪問しました。

写真手前の石済み壁が火葬場で、その奥に丘の上まで石積みの壁墓地が広がっています。
壁墓地は、丘陵地を段状に造成し、よう壁に柩や骨壺を安置できる穴を設け、積み重ねた形状をしています。墓地と火葬場は、同じような石積の外観で統一され、葬送の地として一体感のある風景を創っています。
その風景は地中海沿岸の明るい陽光と開放的な空気感に包まれ、スペイン人の民族性や気質が感じられました。


葬送デザイン部会 S



  ヴェネツィアの海に浮かぶ墓地の島 
               サン・ミッシェル島
                  
墓地(霊園・墓地)/イタリア

地図を広げると、ベネチアングラスで有名なムラーノ島とヴェネツィア本島の間にある島に目がとまる。
さすがヴェネツィアというべきか、サン・ミッシェル島は丸ごと墓地で、まさに海に浮かぶ墓地の島である。

フォンダメンテ・タオーベ埠頭から水上バスで島に向かうことができる。
ここは15世紀に教会がつくられ、ナポレオンが市民の墓地として布告したと伝えられるところである。
ヴェネツィアの島々の至るところにある墓が、ペストの感染の原因と考え、街から離れた、サン・ミッシェル島を墓地専用とすることを決めたのである。
島全体が煉瓦造りの城壁に囲まれ、糸杉の緑がこぼれる。船着場から教会の中庭にでる。
著名な歴史の人物の墓と記念碑はアクセスしやすい場所にある。
アーケードの床には、墓誌が嵌め込まれている。床の下にも棺が納められている。
アーチの一つをぬけると、高さ3mもある長い壁に、レリーフで飾られた墓誌が美しくならんでいる。


葬送デザイン部会 T



  故人を見守る大仏        墓地(霊園・墓地)/日本・茨城

霊園や寺院には、墓地を見守るように大仏様が鎮座しているところがあります。
家族や故人が仏教徒であれば別ですが、特に宗教的な思いもなければ、なんとなく仏式のお別れを行って仏式の墓石に埋葬されていくのでしょう。

まあ、信仰心はなくとも、古くから慣れ親しんだ仏様が見守ってくださるのであれば、一般的な日本人としては、すんなり受け入れられるだと思います。

上の写真は「牛久の大仏」。世界一の大きさの立像で、内部には仏教を知ることができる様々な空間が階ごとにあり、言ってみれば建物となっており、最上部には展望台もあります。

日本の火葬の普及は釈迦が火葬されたことにも起因しますから、その偶像としての大仏に見守られていれば、故人も極楽浄土にて楽しく過ごしていると思うことができますね。


葬送デザイン部会 S



  現代を見つめる大仏       墓地(霊園・墓地)/日本・北海道

この写真は北海道にある通称「頭大仏」です。
なぜ「頭大仏」と呼ばれるかというと、大仏様自体が丘の中に鎮座しており、遠目には頭が丘の上に飛び出て見えるからです。
丘はラベンダーが一面植えられ、季節にはラベンダー色に染まります。丘の中へトンネルを進むと、全体像を見ることができる仕掛けとなっており、ドラマチックなロケーションにより人の好奇心を駆り立て、今では観光地化し、来場者が後を絶たないそうです。

特別な信仰はなくとも、行ってみたいと思わせるこの仕掛けは、かの有名な建築家、安藤忠雄氏によるものです。

鎌倉の大仏にもかつては伝統的な意匠の上屋があったそうですが、この頭大仏は、上屋としての大仏殿ならぬ自然の丘を纏うという斬新な手法によって、現代を見つめる大仏となったのでした。


葬送デザイン部会 S



  世界一美しい墓 タージ・マハル  墓地(墓石・モニュメント)/インド

タージ・マハルは世界一美しい墓とも呼ばれ、ムガル帝国第五代皇帝シャー・ジャハーンの妃ムムターズ・マハルの墓である。世界各地から貴石が取り寄せられ、多くの職人のもと二二年といわれる長い歳月と天文学的な費用をかけ、一六五三年に完成したとされている。
赤砂岩でできた正門を抜けると、正面に四部庭園があり、その奥にタージ・マハルが完全な左右対称な姿を現す。

シャー・ジャハーンは、この後ヤムナ河の対岸に、黒大理石で自分の墓を建て、両者を橋で結ぶ計画をしていたといわれる。しかしその夢はかなわず、息子に幽閉され、死後は妃の横に葬られることとなった。
全てが左右対称にデザインされている中で、シャー・ジャハーンの墓だけが唯一、非対称の存在となっている。


葬送デザイン部会 T



  森に包まれた慰霊塔    墓地(墓石・モニュメント)/日本・神奈川

私の住む街にこんな慰霊塔がありました。
気になり市のホームページを調べてみると、「市内戦没者を合祀し、その御霊を弔慰することを目的に慰霊塔を設置しています。」とあります。もともとは、旧日本軍が建立したものですが、戦後国から譲り受けたとあります。
中々立派で、長い参道があり、慰霊塔は森の木々に包まれ、静かな環境に包まれています。
慰霊塔の形態は墓石を拡大したような基壇と塔部によって構成されたよくある形状です。

人々は、鎮魂のためにモニュメントを建て、永続的に祈る聖域を残していく。そんな性質を持っているようです。それを表現するモニュメントの形態はいろいろあるのではないでしょうか。

これから折々に紹介したいと思います。


葬送デザイン部会 S



  花を手向ける場      墓地(墓石・モニュメント)/日本・神奈川

私が通勤する歩道わきにいつも花が手向けられています。枯れてくるといつの間にか新しいきれいな花に変わっています。
これは推測でしかありませんが、どなたが交通事故でこの場所で亡くなられたのか、そんな思いがします。
この花を見るたびに、いつも花を手向けている何方かの大切な人への深い思いと、癒えないでいる悲嘆の苦しみが伝わってきます。
きっと、お墓もあるでしょうし、自宅には祭壇もあるかもしれません。そういった供養するにしつらえた場所以外に、アクシデントのあった場も本人にとっては大事な弔う場所としてあり続けるのでしょう。

弔う場所として火葬場はどうあるべきか常に悩んでいますが、人の思いはそれをはるかに超えて、深く重く永いものだと思い知らされました。


葬送デザイン部会 S



  光り輝くGokuRakuJodoな納骨堂  墓地(納骨堂)/シンガポール

シンガポールには政府設置の納骨堂と民間の納骨堂があり、多民族国家の多様な価値観や葬送習慣を傍受することができます。
簡素な政府設置の納骨堂に対して、民間の納骨堂は煌びやかな装飾が施され、目を見張る豪華さを売りとしています。
豪華絢爛・極楽浄土に憧れる華人の死後の世界への価値観を体現した祭祀施設であり、日本とは異なる死後の世界に対する価値観を傍受することができます。
また近年は納骨堂の建設をビジネスチャンスと捉え、外資系企業の参入も行われています。


葬送デザイン部会 K



  なぜここに?二葉亭四迷終焉の碑   墓地(納骨堂)/シンガポール

ロシア文学家、翻訳家、小説家である二葉亭四迷は1908(明治41)年に朝日新聞特派員としてロシアへ赴任しましたが、1909(明治42)年5月10日、肺を患った二葉亭四迷は、帰国途上の日本郵船賀茂丸船中(ベンガル湾)にて死去します。そして日本郵船賀茂丸がシンガポールへ到着した同年5月13日、当地で火葬されました。そして1929(昭和4)年7月14日にこの終焉の碑が建設されました。

なおこの碑はあくまでも記念碑であって墓ではありません。遺骨の全ては日本へ還ってきており、東京の染井墓地に埋葬されています。


葬送デザイン部会 K




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